Djambawa Marrawili インタビュー |
4. Djambawa ライフ・ストーリー / Yothu-Yindi
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この地に着いた時には一面ブッシュだった。滑走路建設のために木々を手作業で切り開き、メインロードからここまでの道を作った。たった1本の長い長い道しかなかったんだ。
政府関係者から車を借り、すべての人たちをこの地に連れてくることができた。その時の人たちみながここに住み、いまは新しい第三世代にまでなっている。父親たちと母親たちはみなここ、あぁ、この地に埋葬された。そうしてみな今ここにいるんだ。
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絵画について学んでいた時には、父さんはここで唄のうたい方を教えてくれた。唄をどこからはじめるのか、どうやって唄を終えるのか、ダンスをどう導くのかを。さまざまな土地のダンスを。別の唄に移る前に一連の唄をまず終えないといけない、とかそういう類いのことをさ。
どうやって唄うのか、ヤリの投げ方、ディリーバッグ(パンダナスの葉の繊維を編んで作られるカゴ)、いくつものストリーを父さんが教えてくれた。さらに秘伝の選択肢へといたるより深層へと導いてくれた。彼のすべてを引き継いだからこそ、父さんはわたしをDjambawaと呼んだんだ(Djambawaという名は彼の祖父、父親、現在のDjambawaまで代々引き継がれてきている。本文ではDjambawaと彼の父親を区別するために父親のもう一つの名前Wakuthiを使っています)。
父さんからのメッセージをとてもはっきりと受け取っている。わたしの一番最初の名前はDjambawaではなくミニヤウォイ(スペル不明)だ。
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わたしことDjambawaすなわちミニヤウォイはつねにさまざまな政治問題にかかわっている。今となっては「著名なアーティスト」と言う人もいるかもしれないが、それは私自身によるものではなく、父と母から学んだことだよ。
妻もそうで、彼女も著名なアーティストになった。二人でともに作品を作ることもある。彼女はわたしの妻でもあるが、ヨォルングの世界観においては「Yothu-Yindi」の関係なんだ。
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「Yothu-Yindi」とはマザー&チャイルド。ただそれだけではなく、ヨォルング文化の構造を意味している。そこには「Yothu-Yindi」、マザー&チャイルドがある。
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